蝸牛の庵

好きなこと、好きなだけ

無形のものを買う


サービスを買う。オプションをつける。
たいていの場合、手元には何も残らない。


たとえば、新幹線でグリーン車を選択する。いつもよりランクの高いホテルに宿泊する。アトラクションを優先的に利用できるチケットを購入する。ハイランクの席で演劇を鑑賞する。


なんだかもったいない、と思ってしまう。石油王の嫁にでもなれば屁でもないのかもしれないが、残念ながら私は庶民である。もっと節約の余地があるのに、と思ってしまうのが常である。

 

本当にもったいないのだろうか。
少し余分にお金を払って質を高めるということは「ぜいたく」なのだろうか。

 

 

そもそも日本人という国民は「おもてなし」を重んじるあまり、サービスに金銭を払うということに躊躇いがあるように思う。ホストはゲストに、須らくして最善を尽くす。顧客は神様である。


「おもてなし」はあくまでも前提で、取引の無償の付属品という感覚だろうか。

 

そんなのは甘えでしかない。


というのは言い過ぎかもしれないが、たぶん、それに近い。

 

 

そもそも、もてなしは無料ではない。
たとえばこれが家どうしの行き来なら、招かれた側にも準備が必要である。
訪問のために予定を調整する。時間をつくるため、誰かに頭を下げることもあるかもしれない。あるいは家事を早めに終わらせる必要がある。新しい足袋を下ろし、いつもより良い装いをするだろう。手ぶらで向かう訳にはいかない、菓子折のひとつでも持たねば格好がつかない。運賃を払い、あくびをかみ殺して電車に揺られる。慣れない土地を手書きの地図を頼りにさまよい、緊張しながら玄関の呼び鈴を押す。

そこではじめて、「おもてなし」を受ける。

 

どうだろう。深夜のコンビニにパジャマも同然の格好でふらりとやってきて「お客様は神様だ」などと誤った伝統を振りかざし無理を通そうとする行為のなんと馬鹿馬鹿しいことか。なぜ己がもてなされるに価すると思っているのだろう。何の努力も払っていないのに神を騙るなど傲慢も甚だしい。

 

根拠も特定の対象もなく怒り狂ってみたが、要はサービス(もてなし)には相応の対価を払わねばならないということだ。

 


ではオプショナルな待遇が果たして贅沢品であるのか、サービスに追加料金を支払うことに意味があるのかということについてだが、これは当然状況や価値観によりかなり左右されるので一概には言えない。


ただ、無形のものが大きな価値をもたらすことは少なからずある。以下に自戒も含め私個人の判断基準を挙げてみようと思う。

 

第一に、その追加料金によって時間が短縮できるかどうか、考える。時は金なりというのは平均寿命が80を超えた現代よりずっと昔に生まれたことばであるが、未だ多くの人が真理と認めている。金銭は時間の上にあってはじめて価値を持つ。

 

第二に、その追加料金が経験の質を高めることに繋がるかどうか、である。ある種のオプションは、知的好奇心を満たしたり、思いもよらない感動を生み出したり、今後訪れる判断の機会に役立ったり、人間関係を円滑にしたりする。大袈裟にいえば精神的成熟をもたらす。
金銭で知力を買うことはできないが、知力を培いやすい環境を買うことは出来るのだ。

 

第三に、長期的に見てもそれが高価であるか。案外、最初の投資が後々の得になることも多い。私自身、節約したつもりで安物買いの銭失い、というケースが結構ある。

 

 

自己に反映され可視化される可能性を秘めているなら、サービスはあながち無形ともいえないかもしれない。

 


節約上手とケチは違う。サービスを省くことは確かに合理的であるが、自分の時間の価値を高める出資は惜しみたくないと思う。
いつか石油王と結婚するまでは、たまに少し背伸びしてみるのも悪くない。