蝸牛の庵

好きなこと、好きなだけ

質問のはなし

 

ふと、質問をうまくできるようになりたいと思った。

 

質問、特にオープンな問いかけ。
これは単に自分の疑問を解消するためのものと、相手に情報の整理を促す機能を持つものに分けられる。話を聞いているという意思表示や積極性のアピールなど、質問すること自体が意味を持つ場合もある。

質問というのは難しい。
私の知る賢いひとたちの殆どは「上手に訊くひと」であるように思う。
「上手に訊く」から賢いし、賢いから「上手に訊く」ことができるのだろう。

 

適切な質問をするということには多くの高次な過程が含まれる。
まず、現在の状況を正確に把握する。
自分にとって必要な情報を認識し、その供給源となりうる対象を選定する(既に候補となる対象者を知っていて、かつその相手と質問が許される関係性を築いていることが前提となる)。
もう1度状況を吟味し、質問を発するべきタイミングを判断する。
疑問を言語化する。これは伝わりやすく簡潔で、尚且つ相手に対する敬意を示し、気分を害さないかたちを取らなければならない。
そしてようやく、発声する。
だが質問は発することがゴールではない。相手の返答に耳を傾け、理解し、情報を処理する。
自分の求める情報が得られたのかを照らし合わせ、必要であれば更に質問を重ねる。

 

ざっと挙げるだけでも質問の機序にはこれほどの処理能力が必要とされる。気が遠くなりそうだ。

それでも我々は質問をする。適切なものにしろ、そうでないにしろ。
残念ながら質問が苦手だからといって、受動的な情報収集だけではうまく生きられない。

「元気にしてる?」「弊社を志望された動機は?」「ミルクと砂糖はお付けしますか?」「環境問題についてどのようにお考えですか?」「今なんて?」「お母さん私の上着どこ?」「専門家としての意見をお聞かせ願えますか?」「予備は何部印刷しましょう?」「どこの政党を支持してるの?」「他にご質問はございませんか?」

繰り返されるプロセス。対象者が自分自身であるものを含めると、一日にどれだけの質問が脳内で生成されているのだろう。
専門知識、経験、こだわり、意見、予定、希望、或いは客観的な自分のこと。質問を通して得られるものはほんとうに多様だ。

知識や理解を得る手段としての質問では、よりスピーディに、より深い疑問を持ち、発信することが鍵となる。質問の能力を高めることは知識を深め、思考力を訓練し、感覚を研ぎ澄ませることと関連している。

もちろん質問はそこで得た情報をアウトプットしなければ意味がない。質問ばかりして行動の伴わない人間はかなり厄介だ。
けれど、自分の得意なことや専門領域についてだれかが興味を持って訊いてくれたとき、嬉しく思うひとはたくさんいるだろう。少なくとも私はそうだ。

 

ググる」ことですぐに情報を得られる環境によって、疑問を保持する時間は確実に短縮している。質問を行うプロセスの多くが省略されている。
まずは忙しい生活のなかで足早に過ぎ去っていく物事を興味を持ってみつめ直し、のんびりとはてな探しをしてみるのもいいかもしれない。

 

「百聞は一見に如かず」は多くの場合真理だ。けれど人生は疑問の数だけ「一見」を重ねるにはあまりに短い。だれかの「一見」を「百聞」としておしいただくのも悪くない。

 

だってそのほうが、何も得られないよりずっといいと思いませんか?