蝸牛の庵

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『日本人の脳に主語はいらない』


日本人の脳に主語はいらない (講談社選書メチエ 410) 講談社 https://www.amazon.co.jp/dp/4062584107/ref=cm_sw_r_sms_awdb_8HLVyb0BYAHAK

 


でかいリュックを前に抱えて身体の前の制空権を確保すれば、満員電車でも本が読めることがわかった。そんな中でちまちま読み進めていた一冊がこの本だ。

図書館で借りたもので返却期限が迫っている。このまま別れるには惜しいと感じるほど私のツボにクリティカルヒットしたのでメモを残しておこうと思う。

 

 


▷仮想的身体運動とは、身体を動かす脳神経回路が実際の身体運動をともなわずに活動することである


 

 ひとがイメージをするとき、そのイメージにまつわる運動野が活発化する。

たとえば、スキーのできる人が『スキーをする』という場面を想像すると、スキーをするときに使う筋肉に脳から信号が送られる。スキーのできない人が『スキーをする』と想像しても、身体のどの部分に緊張をあたえるべきかを知らないので適切な神経伝達は起きない。


想像と身体運動とは密接な関係にあるのである。


ただし想像の場合は①筋肉からのフィードバック信号がない②筋肉に送られるパルス数がかなり少ない③末梢神経が動かない、という3点が実際の身体運動とは異なる。

 


▷脳の接続は、感覚器官の喪失があれば再構築される柔軟性を持っている


 

ある指が切断されると、その指を担当していた脳の部分は身体の別の部分を担当するようになる。これは新しい接続ができたというより、今まで抑制されていた接続の潜在能力が引き出されたといえる。

ただし、接続の対象があるにも関わらず使われない神経細胞は死滅する。

 


ミラーニューロンは自己の運動のみならず他者の運動を目にした際にも活動する


 

 他者の運動を見ることでミラーニューロンが活動し、模倣を想像する仮想的身体運動が発生する。これが他者の心を理解することに繋がる。

仮想的身体運動が発達していなければ仮想的に模倣することができず、他者理解が困難となる。


また、生まれたての赤ちゃんの反射的な模倣を除くすべての模倣には、自己意識が必要である。自他が分離しているという認識がなければ模倣は生まれない。

 


▷日本人は左脳で母音を聴き、イギリス人は右脳で母音を聴く


 

 発声は、仮想的身体運動としてまず母音を内的に聞き、調音することから始まる。


日本語は母音の比重が大きい言語であり、これを母語とする日本人は外的な母音の処理を左脳の聴覚野で行うようになる。これは内的な母音に対しても同様であるといえる。左脳には言語野も存在するので、母音の処理から次の発声へのタイムラグはほとんどない。


一方、英語は子音の比重が大きい言語である。これを母語とするイギリス人は、左脳の言語野と比較的距離のある右脳の聴覚野で母音を処理する。すると、発声の第一段階である母音の処理は右脳で行われるようになる。右脳で処理された母音を、左脳の言語野に伝達するためには、比較的長い時間を要する。
イギリス人では母音の処理から発声までの時間的空白ができるために、認知的な自他分離を前提として据える余地がない。このため、言語的自他分離が必要となる。
母音処理と発声の経路がより短い日本語話者は、認知的な自他の意識を前提とする時間的余地があるため、無駄な主語を省略できるのだという。

 

 


▷▷数年前、日本語の主語について調べていたときは、歴史的背景と文法にばかり目を向けていて脳の構造が違うなんて思ってもみなかった。読みながら、固定観念に囚われていた目から鱗がぼろぼろ落ちてきてとても面白かった。

わたしという人格を構成する脳細胞はこんなにも有能なのにわたし自身はどうしてこんなにクズなのだ。きっとこれから老化に向かって、身体よりも脳が先にどんどん死んでいくのだ。脳に置き去りにされて、ただのからっぽの入れ物になるのが怖くって仕方がない。これからいっぱい感覚入力と仮想的模倣をしてあげるから、あと60年は頑張って生きててね。そして一緒に心中しましょう。