蝸牛の庵

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『飛ぶ男』


『飛ぶ男』安部公房https://www.amazon.co.jp/dp/4103008105/ref=cm_sw_r_tw_awdb_x_iA7RybSMRT7HG

 


水曜ヨルナイトリスナーの基礎教養として安部公房の本を読んでみようと思いたち、はじめに読んだのがこの作品であった。


「はじめての安部公房」に最も適さない類の書であることは読後にはじめて理解したのだが。安部公房のファンにしてみれば一笑に付すような選書であろう。


何せ安部公房の没後、フロッピーディスクに残っていた未完の遺稿だという。しかも発表後に夫人の加筆が発覚したという曰く付きである。
入門書にするにはいささか難易度が高い。はじめてのシルバニアファミリーフトアゴヒゲトカゲだったような気持ちだ。


しかし結果として私は、必ずしも間違った選択ではなかったと思っている。


私は読書のとき、ストーリーよりも文章の巧さを気にするほうだ。この物語は未完だからこそ技術が引き立っている。推敲する前に絶筆したなどとは全く気づかずに最後まで読んでしまった。


内容こそ粘着質な印象だが文体は軽やかである。私自身、露骨な性描写をあまり好まないのだが、執着ともいえるほどの緻密なセクシュアリティの表現は寧ろ無機質で不快感はない。


一般的に文章を構成するときには、この説明は情景を描くため膨らませてこの部分は軽く添える程度に、と情報の取捨選択をするものだ。それには書き手の価値基準によって差が出るものの、優先順位には概ねセオリーが存在する。
たとえば「電車の中に猫がいる」という状況を小説的に表現する場合、猫の容姿があまりに異質であるなどのことがない限り、強調すべきは猫が電車という場所にいる不自然さであろう(文脈は考慮しないものとして)。
極端な例だが、『背部が茶色く、ところどころに黒色の毛が密生し斑模様を形成しており、頭部は額の中心部のみが黒く、顎下から腹部にかけては白色で、目は黄土色、鼻は桃色で先に直径3mm程度の黒斑がある猫が電車の座席に座っていた。』というような表現はあまりに情報に偏りがありバランスが悪い。これでは迷い猫の張り紙のようだ。


時間、情景、登場人物。必要な情報を必要なだけ配合するなら、意図するところの伝わりやすい文章ができる。


『飛ぶ男』で感じたのは、そのセオリーが絶妙に崩されているということだ。


読み進めていると、そこ書き込むの?そこ?という箇所が点在する。
その特徴がありながら、本質を見失わせるほど偏った描写ではない。


読者に情景を想像させながらも自分が拘りたいディティールは作り込む、このバランスが巧いのだろうか。

 


物語がどう展開していき、飛ぶ男がどんな結末を迎えるのかを、もはやわたしたちが知る術はない。
この巧緻な文章をつくるひとが、一体どんなラストシーンを用意していたのだろう。彼の作品をもっと読みたい、もっと知りたい。
そんな興味をそそられる1冊だった。

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