蝸牛の庵

好きなこと、好きなだけ

ことばのことはじめ

ここでは好きなものについて思う存分語るつもりであるが、果たして何から始めたものか分からないので、手始めにことばについて書いてみたい。

日本語というのは長文を書き上げ、読み通すにとても適した言語であると思う。同義の表現にもバリエーションがあるし、漢字を使えば文面が長ったらしく見えず余白も引き締まる。
ひらがな、カタカナ、漢字といった書き言葉がこれほど発達しているのも稀有な例だろう。

もっとも私の場合他の言語を知らないので、日本語を使うよりほかないのだが。

ともあれ私は日本語という言語が大好きなのである。

わざわざこのようなネット社会の片隅でうだうだと駄文を連ねていることもまた、この執着にも似た日本語愛に端を発する。

言語化しなければ思考を整理できない私にとって、頭のなかの『なにか』に名前をつけてカテゴライズし、正しく整列させて関係性を表す語彙でつなぎ合わせていく という作業は必要不可欠だ。

しかしながら基礎教育課程を修了したいま、語彙は能動的に取り入れ、また出力しなければあっという間に指の間からこぼれ落ちてゆく。
表現の幅は狭まり、私の思考には『なにか』が澱のように溜まってゆく。

それを言語化しないまま表現したり、何らかの原動力とする人もいるだろう。音楽然り、美術然り。

だが私は頑固だった。自分が思う以上に頑なだった。

嫌だ、私の頭にあるのはよくわからない『なにか』ではだめなのだ、日本語じゃないとだめなのだ。

あわてて図書館で本を借りてみたり、名作と呼ばれるものを読んでみたりと精一杯の抵抗をはじめた。

ある日、漱石に『肝胆相照らす仲』という表現を見つけた。
隣国の故事成語ではあるが、日本にはこんなにも響きのよいことばがあるのだと衝撃を受けた。

かくのごとく美しいことばというものは山ほどあるのに、私はそのほとんどを使わずに生きていくのだろうと思った。

読んだとて書き話さねば意味がないのだ。
知ったものも使わなければ失われるのだ。

食べたらうんこをせねばならぬのだ。

というわけで、これは私の私による私のためのうんこである。