蝸牛の庵

好きなこと、好きなだけ

プレアデスと銀河鉄道

 

  あんスタ『プレアデスの夜』イベントのストーリー感想です。そんなに凄まじいネタバレはないがほぼ自分用メモと化しているので、一応怖い方は本編読んでからどうぞ。

 

 


  『プレアデスの夜』のステージやカードには、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』のモチーフが使われている。イベントタイトルも恐らくそれを踏襲したものだろう。
ここで既に宮沢賢治ガチ勢のわたしは五体投地し涙と鼻水をたれながら慟哭したわけである。


  そうだ、逆先夏目はジョバンニなのだ。
  そして、青葉つむぎはカムパネルラ。


  というわけで、宮沢賢治ガチ勢的エモーショナル激重プレアデス考察(?)を展開していきたい。
銀河鉄道の夜』については教科書にも載っていたことと思うので読んでいることを前提に書いているのだが、ぬるっと説明すると貧しい少年ジョバンニが友人のカムパネルラと不思議な鉄道に乗って銀河の旅に出るよみたいな話だ。最高なので読んでください。読めよ。

 

 

 

★ふたりは対極にいた

  『銀河鉄道』の冒頭。ジョバンニが同級生のザネリと仲間たちに大声でからかわれる場面がある。その場にいたカムパネルラは何も言わず、ザネリたちとともに去っていってしまった。ジョバンニとの間にあった友情よりもザネリに同調することを選び、気の毒そうな顔で苛めを黙認するのみだった。

 

  天祥院英智のことをザネリと置き換えることを良しとするなら(わたしは天祥院英智のことも大好きなのであしからず)、これはfineに属し五奇人討伐に加担していた青葉つむぎを彷彿とさせる。
  つむぎは夏目たち五奇人が迫害されることを認めていた。昔から知っていた『なつめちゃん』が苦しんでいるのを、可哀想だと思いつつも必要悪として捉えていたのだ。

 

 


★仲間になる

   それでもジョバンニはカムパネルラを受け入れる。銀河をゆく旅の仲間として迎える。
カムパネルラのほんとうの心がまっすぐで曇りのないものだと知っているからだ。

  英智から切り捨てられたつむぎを拾い上げたのはほかの誰でもなく夏目だった。それは一度fineとして上り詰めたつむぎを利用するためでもあったが、それ以上につむぎに信頼を置いていたからだ。

 

 

 

★蠍(さそり)の火

  銀河の旅路の途中、ジョバンニは車窓から赤い強い光を見つける。「あれは何の火だろう」というジョバンニに、カムパネルラが「蠍の火だ」と答える。
すると乗客の女の子が、『蠍の火』の言い伝えを教えてくれる。

  むかし、いたちに追いかけられて井戸に落ちた1匹のさそりが、溺れながらこう祈った。自分は今までたくさんの命を奪って生きてきたというのに、いざ自分が食べられようとした時には一生懸命に逃げてしまった。どうせ溺れ死ぬ命ならくれてやればよかったのに。どうかわたしのこの心を見てほしい。そして次こそは「まことのみんなの幸」のためにこの身体を使ってほしい。
すると、さそりのからだは真っ赤な美しい光となって夜を照らすようになった。今でも明るく燃えるその光こそが『蠍の火』なのだと。

  旅が終わりに近づいてきたころ、カムパネルラとの別れが迫っていることも知らずジョバンニはこう言う。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
そして、カムパネルラは涙ながらにその言葉に同意する。

 

  夏目は最後の五奇人として、戦火から自分を守ってくれた4人の『にいさん』たちの夢を受け継ぐことを誓う。今度は自分が火に包まれようとも、道に光を照らそうとする。夢を高く、輝く星のように、夜空に掲げてみせると心に決めている。

 

  つむぎはかつて、fineのひとりとしてたくさんの人を傷つけ、夏目たち五奇人をばらばらにした。それなのに夏目の隣で、過去の戦いで英智が築いた安全な囲いの中で幸せを享受しようとしている。その矛盾を受け入れられないでいるからこそ、夏目が進んでゆくために「また利用される」ことを選んだ。

 

こんな己の身などくれてやったほうがいいのだ、「ほんとうにみんなの幸のためならば」と。償うように、他の人の幸福のために犠牲を厭わないふたりは正に『蠍の火』だ。

 

 


★二人の訣別

   『銀河鉄道』の結末は悲しいものだ。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」
ジョバンニがそう言って振り返ったとき、もうそこにカムパネルラの姿はなかった。
夢から目覚めたジョバンニは、カムパネルラがザネリを助けるために川に飛び込んでそのまま戻らなくなったことを知る。
ふたりの物語は永遠の別れで幕を下ろす。

  夏目とつむぎの物語にも別れが待っているのだろうか。少なくともつむぎは、夏目に切り捨てられることを恐れていない。また、計略的にとはいえ友であった英智が危機に陥ったときには身を呈するような危うさもある。
  けれどSwitchの場合は、ふたりの物語ではない。

 

  春川宙は、夏目とつむぎを『めらめら燃えてた』『綺麗』な『お星さま』と言い表した。なんて的確なのだろう。宙は『蠍の火』がやさしい光であることに気づいているのだ。
だから宙は夏目が離れようとしたとき懸命につなぎとめた。絶対に夏目とつむぎの手を離そうとしなかった。
宙がいたから、Switchは3人で輝くことを選んだのだ。

 

 


  とまあここまでまことしやかに書き連ねたがすべて一転校生の持論である。
  プレアデスが『銀河鉄道の夜』を踏まえていることは殆ど確実なのでわけわかんねーという人もそれだけ覚えて帰ってほしい。まとめると宙ちゃんがいてほんま良かったSwitch尊いということです。


  それと蛇足なのだがプレアデス、スバしのが完全に付き合っていて最高だった。ありがとうございました。

 

反省文を含む自己統制のはなし

 

 

或る日の出来事である。

 

ほんとうに危険な行為を、やや非難を含めた言い方で指摘したところ、

「あなたは心配しているつもりかもしれないがただの非難にしか聞こえない!」

と言われた。

 

いや非難なんですけどね と思うのと同時に、もっと平和的解決を図ったほうがよかったのにと自分の未熟さを痛感した。

 

きっと相手の心には『非難された』という感情だけが刻まれて、『危険である』という事実は二の次になってしまっている。

わたしはわたしのことば選びで損をしたし、相手は学ぶ機会を失った。もしかしたら同じことが繰り返されて、今度は事故につながるかもしれない。

 

わたしはどちらかというとコミュニケーションをベースにする職種を選んだので、公的な場などでの意思伝達についてはそれなりに訓練する機会を持てている。

だが、プライベートではまだまだそうはいかない。

言いたいことを精査せずに口から出してしまったり、そもそも伝わりづらい言い回しやタイミングを選んで混乱させたり。或いは、分かっていて悪意を濾過せずにことばに含めてしまったり。それで今回のように失敗もする。

 

上手にことばをつかえるようになりたい。もっと精錬して、伝達したいことだけを発信する。

少なくともそこに、送り手のマイナス感情は必要でないのだ。いくらこちらのコンディションが悪くともそれは相手の与り知るところではない。

疲れていようが体調が悪かろうがホルモンバランスで気分が優れなかろうが人を傷つけていい道理はない。八つ当たりされて不快に思わぬ人間などいない。

 

自己統制。

きっといつまでも、生きている限り、一生、わたしはわたし自身と戦っていかなくてはいけない。

最大の敵は自分自身 というのは、何度となく耳にしてきた表現であるが、その意味をいま身をもって実感している。

 

 

 

質問のはなし

 

ふと、質問をうまくできるようになりたいと思った。

 

質問、特にオープンな問いかけ。
これは単に自分の疑問を解消するためのものと、相手に情報の整理を促す機能を持つものに分けられる。話を聞いているという意思表示や積極性のアピールなど、質問すること自体が意味を持つ場合もある。

質問というのは難しい。
私の知る賢いひとたちの殆どは「上手に訊くひと」であるように思う。
「上手に訊く」から賢いし、賢いから「上手に訊く」ことができるのだろう。

 

適切な質問をするということには多くの高次な過程が含まれる。
まず、現在の状況を正確に把握する。
自分にとって必要な情報を認識し、その供給源となりうる対象を選定する(既に候補となる対象者を知っていて、かつその相手と質問が許される関係性を築いていることが前提となる)。
もう1度状況を吟味し、質問を発するべきタイミングを判断する。
疑問を言語化する。これは伝わりやすく簡潔で、尚且つ相手に対する敬意を示し、気分を害さないかたちを取らなければならない。
そしてようやく、発声する。
だが質問は発することがゴールではない。相手の返答に耳を傾け、理解し、情報を処理する。
自分の求める情報が得られたのかを照らし合わせ、必要であれば更に質問を重ねる。

 

ざっと挙げるだけでも質問の機序にはこれほどの処理能力が必要とされる。気が遠くなりそうだ。

それでも我々は質問をする。適切なものにしろ、そうでないにしろ。
残念ながら質問が苦手だからといって、受動的な情報収集だけではうまく生きられない。

「元気にしてる?」「弊社を志望された動機は?」「ミルクと砂糖はお付けしますか?」「環境問題についてどのようにお考えですか?」「今なんて?」「お母さん私の上着どこ?」「専門家としての意見をお聞かせ願えますか?」「予備は何部印刷しましょう?」「どこの政党を支持してるの?」「他にご質問はございませんか?」

繰り返されるプロセス。対象者が自分自身であるものを含めると、一日にどれだけの質問が脳内で生成されているのだろう。
専門知識、経験、こだわり、意見、予定、希望、或いは客観的な自分のこと。質問を通して得られるものはほんとうに多様だ。

知識や理解を得る手段としての質問では、よりスピーディに、より深い疑問を持ち、発信することが鍵となる。質問の能力を高めることは知識を深め、思考力を訓練し、感覚を研ぎ澄ませることと関連している。

もちろん質問はそこで得た情報をアウトプットしなければ意味がない。質問ばかりして行動の伴わない人間はかなり厄介だ。
けれど、自分の得意なことや専門領域についてだれかが興味を持って訊いてくれたとき、嬉しく思うひとはたくさんいるだろう。少なくとも私はそうだ。

 

ググる」ことですぐに情報を得られる環境によって、疑問を保持する時間は確実に短縮している。質問を行うプロセスの多くが省略されている。
まずは忙しい生活のなかで足早に過ぎ去っていく物事を興味を持ってみつめ直し、のんびりとはてな探しをしてみるのもいいかもしれない。

 

「百聞は一見に如かず」は多くの場合真理だ。けれど人生は疑問の数だけ「一見」を重ねるにはあまりに短い。だれかの「一見」を「百聞」としておしいただくのも悪くない。

 

だってそのほうが、何も得られないよりずっといいと思いませんか?

バランスのはなし

このところ長い文章を書く機会というのに困っておらずご無沙汰だったが、久しぶりにただただ最近の考えを書き連ねてみる。校正はあまりしないようにしたい。整合性のなさ、一貫性の欠如も含めて私という人間だ、ちょっとは反省しろ。

とかく論ずることが好きなので、好きなことを語るというブログの方向性と齟齬はない。ないんや。

 

このところ、バランス感覚について考えさせられることが多い。
もちろん物理的な平衡感覚の話ではない。対人関係における、あるいは精神的な平衡である。

対人関係におけるバランスは、『空気を読む』というやつだ。
場の雰囲気や他者の感情に配慮して、自分の感情や希望を譲ったり、役割を変えたり、時間やエネルギーや物質的な犠牲を払ったりする。

日本人にはバランスを重視する傾向が強いが、私もまた過度にこれを気にするタイプである。バランスをとることにアンバランスな注意力を向ける。

致命的に自己肯定感が欠如しているので、よそさまに悪影響をもたらしてまで自分の意見を通す気がない。品のない下ネタも笑うし、相手のミスは容認する。
場の空気や他人の感情のほうが、自分よりずっと価値があるのだから。

こうして場の平衡への執着のために、精神的なバランスが崩れる。

精神的なバランス感覚は厄介だ。ホルモンに左右されたり、他者の何気ない言葉でぐらついたりする。本を一冊読んだだけで安定することもある。
すべてが自分の体重のかけ方に委ねられているのだから対人のバランスよりも簡単であるはずなのに、不思議なものだ。

ずっと中心点を探している。何に追われるわけでもないのに焦燥感に駆られる。みんなが海の見える豪邸のベランダで仲間とパーティーに興じている様子を見上げながら、或いは一所懸命に築き上げた堅固な石垣のうえで設計図を広げる姿を横目で認めながら、自分だけは丸腰のまま泥濘に流木で掘っ建て小屋をつくろうともがいている。

でもご安心を。人間はみんな、大人になったら自ずと安定するのだ。大人という生きものは安定している。心の作用も感情も自由自在だ。
そう盲信したままのこどもが、いよいよのこり半年で成人を迎えようとしている。

論点がタップダンスではあるが、要は大人になるとはバランスが取れるようになることなんじゃないかな、いまのとこ全然だめだな、年をとるのは嫌だな、という救いようのないピーターパンシンドロームである。

どこかに重心を置いて安住できるようになるのだろうか、それとも、足掻くのも悪くないと思える日が来るのだろうか。

そんなことを考えながらも、足場を固める努力も払わぬまま、三半規管の海に揺られる日々を過ごしている。

 

ハウルのこと

 

ちゃうねん。から話切り出す関西人てなんなんやろな。否定から入るの良くない。あと大概なんも違てへんからな。

どうも、今回はハウルの動く城について書きます。イェイ!


ちょっとまじめなこと(前記事)書くとすぐバランス取るように道化になるのは関西人の性なのだろうか。あっ全然そんなマジで言うてんとちゃいますからね?取っ付き難いことありませんからね?みたいな態度やめたい。熱いヤツは素直にかっこええがな。


私はハウルがとにかく好きだった。

そもそも幼少期には『もののけ姫』ばかり観ていた生粋のジブリっ子だった。公開が1997年、私の生まれ年である(正確には生まれ年度だが)。モロに育てられたといっても過言ではないのではない。

小学校入学前には『千と千尋の神隠し』が大ヒットした。当然私もハク様の美貌に酔いしれた。地元の書店に『千と千尋』の書籍だったかなんだったか関連商品が置いてあり、あまりの欲しさにおねだりしようと咄嗟にひっ掴んだ手が母のものではなく知らないおばさんの手だった、という恥ずかしい記憶まである。

そして2004年、『ハウルの動く城』公開と相成る。父に連れられて映画館に観に行ったことをよく覚えている。

とにかくハウルがかっこよかった。今でこそ「美しくなかったら生きていたって仕方がない」などと吐かす男は願い下げだが、美醜の感覚も曖昧な小学校低学年の私にとっては些事である。こんなに綺麗なんだからそらぁ私にゃまるでわからんことも考えよるやろなぁ程度の認知しかない。

たぶん初恋である。ドラマ『野ブタ。をプロデュース』が2005年放送開始であるから、修二と彰にどハマリして山Pに現を抜かす約1年前だ。
そういえばハウルの中の人がキムタクであることを考えると意外とジャニーズキッズだったのかもしれない。

特にわっさわさに羽根の生えた鳥人間形態のハウルが大好きだったので、この頃からケモナーの才能があったのだろう。金髪碧眼が好物なのも今と同じだ。山姥切くん〜!

映画鑑賞後、興奮冷めやらぬ状態で物販コーナーに突撃し人面鳥ハウルのフィギュアストラップを父に買ってもらった。小さいカルシファーも付いていて実に可愛らしかった。これは帰宅してから母に「気持ち悪い」と捨てられるという悲しい運命をたどることとなるのだが。

学校の図書室で原作を借りて読んだりもした。途中で映画の内容とは随分違うと気づいたが2巻『アブダラと空飛ぶ絨毯』までは読了したはずだ。長女という立場は損をする役回りであるというソフィーの感情など、原作を読むことで映画の理解が深まる部分もあった。ハウルと末永く幸せでいてくれと思っていたのでやはり私は昔からNLカプ厨である。

そんなわけでハウルは私を、あのどこでもドア的な城の扉で、オタク人生に引き入れたのだった。


ウォ〜〜だれかハウルのLINEスタンプ買ってくれ〜〜〜!

犬のこと

 


犬ってすごい。よく鼻が利く。走るのも得意だ。どこまで散歩に行っても帰り道をちゃんと覚えていて、ひとを家まで連れて帰ってくれる。自分の名前は忘れない。
穴を掘るのも私よりずっとじょうずで、はやい。

 

犬はたくさんのことを知っている。


寒い日はおさがりの毛布があたたかくて、暑い日は立ち並ぶ植木の隙間が涼しい。
家の外にいる人は少しこわいけれど、玄関から入ってくる人はお客様だ。尻尾を振ってお迎えするのだ。
雷と風は危険だと思う。そういう日はどこかに隠れているか、走り出してしまうのがいい。
ご飯を食べるのが遅くて、いつも鳥に奪われる。でも気にしない。自分にはまたごはんをくれるひとがいるのだと理解している。
牛乳はおいしいけれど、飲んだあとは口の周りを丁寧に舐めてきれいにしないといけない。
おねだりはおすわりをして、前足で地面を掻いてみる。それでだめなら、ひとの足元に触れてみる。

 

歳をとって昔みたいに走れないなら、ひとの近くにいるほうがいい。無理はしないほうがいい。
階段を上って勉強机の下に収まっていればあたまを撫でてもらえる。階段の最後の3段は駆け下りても大丈夫だ。

 

身体が思うように動かないなら、大きな声で吠えてみる。倒れてしまったら助けを呼ぶ。そうしたら、かならず誰かが来てくれる。
人の手が口元に運んでくれるものは、きっと食べたほうがいいものだ。
気に入らないことがあったら文句のように鼻先を鳴らしてみせる。傲慢にしていても愛される。
音もにおいも光も、よくわからなくても、だれかがそこにいるのかいないのかは分かる。
息をするのをやめるときも、だれかがいるときのほうがいい。さいごは土に還るから、お世話になったひとに迷惑はかけない。

 

 

犬ってすごい。
人間とともだちで、きょうだいで、家族になれる。

 

 

わたしは犬がすごいことを知っている。くやしいけれど、あの茶色くて四足歩行で毛深くて計算のできないいきものが、17年かけて教えてくれたのだ。きっと忘れないやりかたで。

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『マリヴロンと少女』


おれは宮沢賢治の夢女子なのでエモーショナルに『マリヴロンと少女』のはなしをしようと思います。

 


宮沢賢治 マリヴロンと少女-青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1922_17654.html

 


登場人物は、アフリカへ旅立とうとしている牧師の娘ギルダと、彼女の敬愛する歌うたい・マリヴロン女史のふたり。
ギルダはマリヴロンに、どうか自分を連れて行ってほしいと懇願する。マリヴロンは、自分のやっていることよりも牧師の娘としてひとのために僻地で身を捧げることのほうがずっと立派で、芸術だという。ギルダはマリヴロンに慕う気持ちを伝えるが、マリヴロンはそれとおなじだけの賞賛をギルダに返して去ってしまう。

 


私にとっては大好きな作品だが、宮沢賢治自身は同じように思っていなかったかもしれない。
『マリヴロンと少女』は前身である『めくらぶだうと虹』という作品を改作した謎多き物語であり、そもそも完成させることを放棄され生前発表されなかった作なのだという。

 

でも私はこの作品が、この作品に並んだ綺麗なことばたちがとても愛らしいと思う。


描写が美しく、何度読んでも鮮やかに目の裏に浮かぶ。
なんだか透き通っているのだ。雨に濡れた草木も、ふたりの間を吹き抜ける風も、虹のかかった空も、マリヴロンの慈しみに富んだ声も、少女の紅潮した頬も。

 

少女ギルダは、マリヴロンにこんな賞賛を贈る。

 

“けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです。”

 

敬愛のこころをありったけ集めてリボンできれいに結った無邪気な花束みたいなことばだ。文字だけでこんなにも色鮮やかな絵画的表現ができるのだ。わたしには逆立ちしたって書けっこない。

というか、こんなきらきらした賞賛向けられたらうっかりせんでも抱きしめてまうがな。

 


それでもマリヴロンはこのいたいけな少女を引き寄せるようなことはしなかった。彼女は信念を強く持っていて、揺るぎない態度を少女に示した。自分のそばにいることよりも、牧師の娘としての仕事のほうがずっと“立派なおしごと”だとマリヴロンは静かに主張した。彼女のことばは謎めいていて、でも明快で、重みがあって、でも軽やかだ。


“正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくる”

 

とマリヴロンはギルダに言った。

 

どうしても、わたしにはこのことばの意味をじゅうぶんに理解することができない。

 

“大きな芸術”とは何なのか。
“時間のうしろ”はどんな空間なのか。
マリヴロンの歌の仕事は、彼女に“大きな芸術”をもたらすものではなかったのか。
あるいは、宮沢賢治にとって「書く」ことは、"正しく清く"、"立派なおしごと"だったのか。

 


この作品のテーマを『芸術と信仰』とする説もあるらしい。ただ、この点については浅学の新参者が自信を持って語れることなどひとつもないので研究者のみなさまの文献をどうぞ。わたしも勉強します。

 

 

この作品に込められたほんとうの意味を知ることはいまのわたしたちには到底できないのかもしれない。
でも、この賛美の詩集のような物語と出会ったことを本当に大切に思っている。

 

きっとわたしはこの作品に、宮沢賢治の“大きな芸術”の片鱗をみたのだ。