蝸牛の庵

好きなこと、好きなだけ

バランスのはなし

このところ長い文章を書く機会というのに困っておらずご無沙汰だったが、久しぶりにただただ最近の考えを書き連ねてみる。校正はあまりしないようにしたい。整合性のなさ、一貫性の欠如も含めて私という人間だ、ちょっとは反省しろ。

とかく論ずることが好きなので、好きなことを語るというブログの方向性と齟齬はない。ないんや。

 

このところ、バランス感覚について考えさせられることが多い。
もちろん物理的な平衡感覚の話ではない。対人関係における、あるいは精神的な平衡である。

対人関係におけるバランスは、『空気を読む』というやつだ。
場の雰囲気や他者の感情に配慮して、自分の感情や希望を譲ったり、役割を変えたり、時間やエネルギーや物質的な犠牲を払ったりする。

日本人にはバランスを重視する傾向が強いが、私もまた過度にこれを気にするタイプである。バランスをとることにアンバランスな注意力を向ける。

致命的に自己肯定感が欠如しているので、よそさまに悪影響をもたらしてまで自分の意見を通す気がない。品のない下ネタも笑うし、相手のミスは容認する。
場の空気や他人の感情のほうが、自分よりずっと価値があるのだから。

こうして場の平衡への執着のために、精神的なバランスが崩れる。

精神的なバランス感覚は厄介だ。ホルモンに左右されたり、他者の何気ない言葉でぐらついたりする。本を一冊読んだだけで安定することもある。
すべてが自分の体重のかけ方に委ねられているのだから対人のバランスよりも簡単であるはずなのに、不思議なものだ。

ずっと中心点を探している。何に追われるわけでもないのに焦燥感に駆られる。みんなが海の見える豪邸のベランダで仲間とパーティーに興じている様子を見上げながら、或いは一所懸命に築き上げた堅固な石垣のうえで設計図を広げる姿を横目で認めながら、自分だけは丸腰のまま泥濘に流木で掘っ建て小屋をつくろうともがいている。

でもご安心を。人間はみんな、大人になったら自ずと安定するのだ。大人という生きものは安定している。心の作用も感情も自由自在だ。
そう盲信したままのこどもが、いよいよのこり半年で成人を迎えようとしている。

論点がタップダンスではあるが、要は大人になるとはバランスが取れるようになることなんじゃないかな、いまのとこ全然だめだな、年をとるのは嫌だな、という救いようのないピーターパンシンドロームである。

どこかに重心を置いて安住できるようになるのだろうか、それとも、足掻くのも悪くないと思える日が来るのだろうか。

そんなことを考えながらも、足場を固める努力も払わぬまま、三半規管の海に揺られる日々を過ごしている。

 

ハウルのこと

 

ちゃうねん。から話切り出す関西人てなんなんやろな。否定から入るの良くない。あと大概なんも違てへんからな。

どうも、今回はハウルの動く城について書きます。イェイ!


ちょっとまじめなこと(前記事)書くとすぐバランス取るように道化になるのは関西人の性なのだろうか。あっ全然そんなマジで言うてんとちゃいますからね?取っ付き難いことありませんからね?みたいな態度やめたい。熱いヤツは素直にかっこええがな。


私はハウルがとにかく好きだった。

そもそも幼少期には『もののけ姫』ばかり観ていた生粋のジブリっ子だった。公開が1997年、私の生まれ年である(正確には生まれ年度だが)。モロに育てられたといっても過言ではないのではない。

小学校入学前には『千と千尋の神隠し』が大ヒットした。当然私もハク様の美貌に酔いしれた。地元の書店に『千と千尋』の書籍だったかなんだったか関連商品が置いてあり、あまりの欲しさにおねだりしようと咄嗟にひっ掴んだ手が母のものではなく知らないおばさんの手だった、という恥ずかしい記憶まである。

そして2004年、『ハウルの動く城』公開と相成る。父に連れられて映画館に観に行ったことをよく覚えている。

とにかくハウルがかっこよかった。今でこそ「美しくなかったら生きていたって仕方がない」などと吐かす男は願い下げだが、美醜の感覚も曖昧な小学校低学年の私にとっては些事である。こんなに綺麗なんだからそらぁ私にゃまるでわからんことも考えよるやろなぁ程度の認知しかない。

たぶん初恋である。ドラマ『野ブタ。をプロデュース』が2005年放送開始であるから、修二と彰にどハマリして山Pに現を抜かす約1年前だ。
そういえばハウルの中の人がキムタクであることを考えると意外とジャニーズキッズだったのかもしれない。

特にわっさわさに羽根の生えた鳥人間形態のハウルが大好きだったので、この頃からケモナーの才能があったのだろう。金髪碧眼が好物なのも今と同じだ。山姥切くん〜!

映画鑑賞後、興奮冷めやらぬ状態で物販コーナーに突撃し人面鳥ハウルのフィギュアストラップを父に買ってもらった。小さいカルシファーも付いていて実に可愛らしかった。これは帰宅してから母に「気持ち悪い」と捨てられるという悲しい運命をたどることとなるのだが。

学校の図書室で原作を借りて読んだりもした。途中で映画の内容とは随分違うと気づいたが2巻『アブダラと空飛ぶ絨毯』までは読了したはずだ。長女という立場は損をする役回りであるというソフィーの感情など、原作を読むことで映画の理解が深まる部分もあった。ハウルと末永く幸せでいてくれと思っていたのでやはり私は昔からNLカプ厨である。

そんなわけでハウルは私を、あのどこでもドア的な城の扉で、オタク人生に引き入れたのだった。


ウォ〜〜だれかハウルのLINEスタンプ買ってくれ〜〜〜!

犬のこと

 


犬ってすごい。よく鼻が利く。走るのも得意だ。どこまで散歩に行っても帰り道をちゃんと覚えていて、ひとを家まで連れて帰ってくれる。自分の名前は忘れない。
穴を掘るのも私よりずっとじょうずで、はやい。

 

犬はたくさんのことを知っている。


寒い日はおさがりの毛布があたたかくて、暑い日は立ち並ぶ植木の隙間が涼しい。
家の外にいる人は少しこわいけれど、玄関から入ってくる人はお客様だ。尻尾を振ってお迎えするのだ。
雷と風は危険だと思う。そういう日はどこかに隠れているか、走り出してしまうのがいい。
ご飯を食べるのが遅くて、いつも鳥に奪われる。でも気にしない。自分にはまたごはんをくれるひとがいるのだと理解している。
牛乳はおいしいけれど、飲んだあとは口の周りを丁寧に舐めてきれいにしないといけない。
おねだりはおすわりをして、前足で地面を掻いてみる。それでだめなら、ひとの足元に触れてみる。

 

歳をとって昔みたいに走れないなら、ひとの近くにいるほうがいい。無理はしないほうがいい。
階段を上って勉強机の下に収まっていればあたまを撫でてもらえる。階段の最後の3段は駆け下りても大丈夫だ。

 

身体が思うように動かないなら、大きな声で吠えてみる。倒れてしまったら助けを呼ぶ。そうしたら、かならず誰かが来てくれる。
人の手が口元に運んでくれるものは、きっと食べたほうがいいものだ。
気に入らないことがあったら文句のように鼻先を鳴らしてみせる。傲慢にしていても愛される。
音もにおいも光も、よくわからなくても、だれかがそこにいるのかいないのかは分かる。
息をするのをやめるときも、だれかがいるときのほうがいい。さいごは土に還るから、お世話になったひとに迷惑はかけない。

 

 

犬ってすごい。
人間とともだちで、きょうだいで、家族になれる。

 

 

わたしは犬がすごいことを知っている。くやしいけれど、あの茶色くて四足歩行で毛深くて計算のできないいきものが、17年かけて教えてくれたのだ。きっと忘れないやりかたで。

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『マリヴロンと少女』


おれは宮沢賢治の夢女子なのでエモーショナルに『マリヴロンと少女』のはなしをしようと思います。

 


宮沢賢治 マリヴロンと少女-青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1922_17654.html

 


登場人物は、アフリカへ旅立とうとしている牧師の娘ギルダと、彼女の敬愛する歌うたい・マリヴロン女史のふたり。
ギルダはマリヴロンに、どうか自分を連れて行ってほしいと懇願する。マリヴロンは、自分のやっていることよりも牧師の娘としてひとのために僻地で身を捧げることのほうがずっと立派で、芸術だという。ギルダはマリヴロンに慕う気持ちを伝えるが、マリヴロンはそれとおなじだけの賞賛をギルダに返して去ってしまう。

 


私にとっては大好きな作品だが、宮沢賢治自身は同じように思っていなかったかもしれない。
『マリヴロンと少女』は前身である『めくらぶだうと虹』という作品を改作した謎多き物語であり、そもそも完成させることを放棄され生前発表されなかった作なのだという。

 

でも私はこの作品が、この作品に並んだ綺麗なことばたちがとても愛らしいと思う。


描写が美しく、何度読んでも鮮やかに目の裏に浮かぶ。
なんだか透き通っているのだ。雨に濡れた草木も、ふたりの間を吹き抜ける風も、虹のかかった空も、マリヴロンの慈しみに富んだ声も、少女の紅潮した頬も。

 

少女ギルダは、マリヴロンにこんな賞賛を贈る。

 

“けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです。”

 

敬愛のこころをありったけ集めてリボンできれいに結った無邪気な花束みたいなことばだ。文字だけでこんなにも色鮮やかな絵画的表現ができるのだ。わたしには逆立ちしたって書けっこない。

というか、こんなきらきらした賞賛向けられたらうっかりせんでも抱きしめてまうがな。

 


それでもマリヴロンはこのいたいけな少女を引き寄せるようなことはしなかった。彼女は信念を強く持っていて、揺るぎない態度を少女に示した。自分のそばにいることよりも、牧師の娘としての仕事のほうがずっと“立派なおしごと”だとマリヴロンは静かに主張した。彼女のことばは謎めいていて、でも明快で、重みがあって、でも軽やかだ。


“正しく清くはたらくひとはひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくる”

 

とマリヴロンはギルダに言った。

 

どうしても、わたしにはこのことばの意味をじゅうぶんに理解することができない。

 

“大きな芸術”とは何なのか。
“時間のうしろ”はどんな空間なのか。
マリヴロンの歌の仕事は、彼女に“大きな芸術”をもたらすものではなかったのか。
あるいは、宮沢賢治にとって「書く」ことは、"正しく清く"、"立派なおしごと"だったのか。

 


この作品のテーマを『芸術と信仰』とする説もあるらしい。ただ、この点については浅学の新参者が自信を持って語れることなどひとつもないので研究者のみなさまの文献をどうぞ。わたしも勉強します。

 

 

この作品に込められたほんとうの意味を知ることはいまのわたしたちには到底できないのかもしれない。
でも、この賛美の詩集のような物語と出会ったことを本当に大切に思っている。

 

きっとわたしはこの作品に、宮沢賢治の“大きな芸術”の片鱗をみたのだ。

 

 

取り急ぎメモランダム

 

プロレスの試合を見に行っていた。

 

右隣の席は筋金入りのプロレスマニアの知人男性Kで、試合鑑賞に熱中していた。

私はKくんのことが好きだった。白熱しているらしいプロレスの試合をやや退屈に思いながら、でも彼が楽しそうに過ごしていることがとても嬉しかった。

 

左隣は中年の頭の薄いさえない男性で、静かにリングを見据えていた。

 

試合終了後、Kくんは私に向き直って言った。

「ところでプロレス好きだったの?どうしてここに来たの?」

 

私は言葉に詰まった。私がここに来た目的はただ彼の気を引きたいとかあわよくばまた誘ってほしいとか、そういういわば男目当ての下心を満たすためであって、プロレスには全くと言っていいほど興味が無いのだ。

 

だが、言葉を詰まらせているのは私だけではなかった。

私の左隣、空を見つめていたさえない中年男性もまた、なぜかKくんの問いに目をぎょろつかせて反応を示した。

 

「なんでって言われても…ねえ」

 

しどろもどろに答えながら私の方を見るので、私は内心誰だよこのおっさんと思いながらも同意した。実際、大きな声で言えるような動機は持っていないのだ。

 

私たちの黙秘にKくんは納得しなかった。何度か同じ内容の問いを繰り返した。

そのうちに語気が強まっていったので、私は決心して口を開くことを選択した。これ以上彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。

 

「私は、Kくんがどんなものに興味持ってるのか知りたくて来ました。プロレスのことは全然知りません」

 

それを聞いたKくんは怒るでもなく、笑うでもなく、ただ「あ、そう」とだけ言った。

 

その様子を見ていた左の中年男性も、観念したように話し始めた。

 

「僕はね、もう今月いっぱいで定年なんだ。何も残せない、本当につまらない人生だった。

だからそんな自分を変えたくて、新しいことを始めようと思ったんだ。なんでもいい、死ぬ前になにか僕という存在の爪痕を残せるようなことを。

それで格闘家になろうと決めた。でも瞬発力では若い子に勝てやしないからボクシングは駄目だし、空手は先生がいないし、剣道はお金がかかる。柔道は昔向いていなくて諦めた。

だからあえて今まで全然知らなかったプロレスを選んだんだ。恥ずかしいんだけど…プロレスでいつかチャンピオンになってやる、と思った。今からじゃ遅いのかな、笑われちゃうかな、って怖くて言いにくかったんだけど。

まずはプロレスに興味を持つところから始めたくて、今日の試合のチケットを取ったんだ。

でもやっぱり、今までの人生で一度も興味が湧かなかっただけあって、つまらなかったね」

 

Kくんは黙って眉間にしわを寄せて席を立った。私も追随して、中年男性に背を向けて立ち去った。

 

 

↑↑↑

 

っていう、珍しくすげー鮮明な夢を明け方に見たんですけど、なんかこのまま忘れてしまうのもったいない気がするんで覚えてるうちにメモします。

ちなみにKくんは実在しますがプロレスマニアでも私の想い人でもありません。なんなら暫く会ってません。残念!

 

あとおっさん誰だよ。今からレスラー目指すんかよ無理だよ。しかも結局興味無いんかよ。

でも結果的に「何このおっさん」っていう意見で私とKくんの思いが一致したので案外恋のキューピッド的なやつだったのかもしれない。

 

なにか意味のある夢だったのでしょうか。夢占い詳しいマンがいたら教えてください。あんまり信じてへんけど。

 

らんま1/2のこと


どうもこんにちは、今更らんまどハマり芸人です。


そもそもは幼少期にぼんやりと観ていた記憶があるのだが、この度ちゃんと観ようと思い立ったのがいけなかった。こどもの頃に浅瀬で遊んでいたその沼は、飛び込んでみれば牙を剥く恐ろしい深さを持っていた。だから子どもだけでみずべちほーに近づいたらだめってママが言ってたのね!


よくよく考えれば、水に濡れるだけで軽率に女体化する格闘少年になど勝てるわけがない。しかも武闘派ツンデレ女学生と戦闘特化型中国美少女を侍らせ、そのケツを追いかける愉快なライバル男子たちを添えるのだ。ハマらないわけがない、お手上げである。無駄な抵抗はやめてプライドを捨てなさい!お前は包囲されている!


あ〜〜〜シャンプーたそかわいいたそ〜〜〜ぴえええ〜〜〜〜


中途半端に言語化することでこの作品の魅力を半減させてはならないとは思うのだが、この熱い想いをなんとか言葉に表したいのだ。

 

 

初版が87年、バブルど真ん中である。
ちょうど最近読んでいた『ベルサイユのばら』が72年頃で、ジェンダーレスな主人公という点では類似したところもあると思っているのだが、女性の地位の感覚がずいぶん違うものだなと感じた。
53年、『リボンの騎士』ではじめて性別の壁を越えて戦い、女性としての幸せを得た‘オンナノコ’が、『ベルばら』では最後まで男装の軍人としての道を貫き、『らんま』ではその境界線すらも自由に行き来できるものになっている。男性→女性、というかたちも珍しい。
これがたとえば戦後すぐの作品だったら、これほどまでに大衆に受け入れられただろうか。

 

そして90年代、女性が女性のまま戦う『セーラームーン』の大ヒットに繋がっていくのだと思うと感慨深い。

 


うるせーな俄がコメディ作品にジェンダー論を持ち込むなよ、という感じだがこれはけっこうすごいなあと思うのだ。


あ〜〜〜良牙くんたそかわいいたそ〜〜〜ふえええ〜〜〜〜


もちろん理論抜きでも面白い作品であることに違いはない。さすがは天下の高橋留美子先生様である。犬夜叉でズタボロに萌えたクソオタクには刺激が強すぎる。


とにかくみんな可愛くてヨダレが止まらない。かと思えば切なくて泣けたりもする。水分が体外に漏れまくる。観ながら脱水症状で痙攣しているのが私である。

 

ぉんなのコがげきっょでゃさしぃ世界。。。ぉとこのコが一生懸命で守ってぁげたぃ世界。。。はぁ。。。すき。。。

 

かなりの数の登場人物が水を被ると動物やらなんやらになってしまうコンプレックス持ちなのだがそれもなんだかんだポジティブに捉えているので愉快である。
みんな愛が重いのにその重みを利用して軽やかに動き回るので胃もたれしない。
ちょっぴりエッチなシーンもいやらしくない。これは私が女性だからというのもあるかもしれないが。

 

あと天道あかねの制服めっちゃかわいくない?めっちゃかわいい。天道あかね交際してくれ。

 

 

いい加減にしよう。

以上が漫画(全38巻)の購入を真剣に検討しかけたレベルでハマっているらんま1/2の話である。
ほんと、みなさんよろしくお願いします…後悔はさせないんで…山寺宏一氏とかね…なにとぞ…キャストも最高なんで…観てください…

『春と盆暗』

 

ネタバレはできるだけ避けますがどうしても本編の内容には触れてしまうので、まっさらな状態で本作を読みたいという方はそっとブラウザバックをば。

毎回言ってる気がするんですけど、全然、この魅力を言語化できる自信がないんですけど、でも、めちゃくちゃ好きなので書くね。

 


春と盆暗 (アフタヌーンコミックス)
熊倉献
https://www.amazon.co.jp/dp/B01N1050ZV/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 


と勇んでレビューに臨んだのだが、こちら↑の商品ページについたレビューがあまりに素晴らしく、何も言えなくなってしまった。


気合を入れ直そう。


わたしたち人間は、それぞれにどこか歪なところがある。網膜が捉える情報とは違う、型にはまらない風景を持っている。もしくは、そう自分で思い込んでいる。

 

私のような10代の時期はきっと特にその傾向が強くて、『中二病』なんて名称がある程だ。
かくいう私もずいぶんこじらせている方だという自負がある。
宇宙の大いなるものとの意思疎通を許されたただひとりの人類だったみんなー?封印された呪われし左手を継承していたことのあるみんなー?元気にしてるー?

 

粒の揃わない自分だけの感情や空想の世界。きっといつか、心の戸棚にしまい込んで鍵をかけてしまうだろう。それが大人になる通過儀礼であるかのようにみなされている。

 

でも願わくばその『心のなかの歪んだ世界』を、暗がりに放り込む前にだれかに肯定されたい、自分で肯定してあげたい。煩わしい過去たちのようで、どこか愛しさもある。そんな気持ちがあるのは私だけではないと思う。


そんなささやかな願いを、この作品に叶えてもらった気がするのだ。


大筋のストーリーはありふれたボーイミーツガール、だがその登場人物たちはどこか歪である。
道路標識を月面に投げてみたり、街が突然水中に沈んだり、目の前のできごとが宇宙を支える法則だったり、景色がみるみる朽ちていったり。もちろん頭の中でのことだが。

そんな、不思議と愛しい心の世界を受け入れてくれる場所を、それぞれがみつけてゆく。

 

やわらかい線で描かれたさわやかな物語ではあるが、何気ないところに伏線が敷かれていてドキッとさせられる。


ストーリーにはI LOVE YOUも親愛のキスも出てこない。けれどそこにあるのは間違いなく、恋で、愛だ。たとえヒロインが眼窩に月のはまった『エイリアン』だとしても。

 


いい漫画に出会ったな、と思う反面、連作が四話で終わってしまったことが残念である。
作者の熊倉献氏について調べてみたがこれ以外の発表作はないようだった。どうかまたどこかで幸せな物語を紡いでくれますよう。

 


試し読みのリンクはこちら。私のお気に入りの『月面と眼窩』が丸ごと読めます。是非に。
http://www.moae.jp/comic/harutobonkura/1?_ga=1.93756571.721826178.1464851020