蝸牛の庵

すきなことすきなだけ 自分のために書いてます

弔うには遠く、忘れるには近い

 

自分のこころの整理のために書きます。別れはやっぱりつらいというお話。

 

 

20年ほど生きてきて、それなりにひとと関わってきて、それなりに死別も経験してきた。

血の繋がったひと、そうでないひと。親しいひとも、もっと親しくしたかったひともいた。すごく尊敬していたひとも、たくさん愛をくれたひとも。動物のいのちもあった。
ぜんぶ悲しかったし辛かったけれど、どうにか飲み込んで、受け入れて生きてきた。それに、感情にブレーキをかけるのは苦手じゃないという自負もあった。

 

だから今回も大丈夫と思った。
だって、彼はアイドルでわたしはファンで。それだけだった。

第一わたしはしゃをるでもジョンペンでもなくて、新曲が出たら聴いたり、流れてくる画像や動画を楽しんだり、日本でテレビに出ていたらチェックしたり、その程度のことしかやってこなかった。ただ、親戚のお兄さんたちのような、そんな距離感だった。

SMのグループたちがゆっくり、或いは突然に、もとのかたちを失っていくなかで、SHINeeだけは変わらなかった。大げさではなく希望の光としてあたりまえのようにそこにあった。
楽曲も素晴らしくて、パフォーマンスもいつも素敵で、個々の力が望まれる方法で発揮されていて、メンバー仲が良くて。
正直なところ、ソルリがいなくなったとき、しゃをるさんは幸せだな、なんて僻み半ばに思ったりもした。

 

とりわけ音楽の才に恵まれた彼の存在は大きかった。歌声はステージでも圧巻で、誰にも真似できない。韓国アイドルはトレーナーの歌唱法が色濃く出てくるので、悪く言ってしまえば没個性化しやすい。そのなかでも彼の声は少し聴いただけでもわかるくらい優れた、唯一無二のものだった。
えぷや他グループのメンバーと仲良くする様子がよくみられていたから、わたしが目にする機会も多かったかもしれない。

 

強くて、かっこよくて、綺麗な瞳の、あったかいひと。
ほんとうにキラキラしていた。

 

俄が何を、と思われるかもしれない。
でも、わたしにも届くくらい強い光だったということだ。

 

 

最初にそのニュースがでたとき、嘘だとか悲しいとかよりも先に、なんで、という怒りにも似た気持ちがいちばんにやって来た。
本人に対するものでも、自分に対するものでも、周りの人たちに対するものでもなくて、ぶつけどころのない怒り。

 

なんで、そんなん、おかしい。
おかしいに決まってる。
そんなことあったら絶対にだめだ。
誰が望んだ。誰が選んだ。誰が許した。

 

わたしは許せなかった。もしかしたらわたしが知らないだけで、ひとはこの許せない気持ちを悲しみというのかもしれない。

 

思えばいままで経験してきた死別は、高齢や病気のために、一瞬でも死という言葉がよぎったことのあるひとたちとのものばかりだった。
突然のものもあったけれど思い返してみれば心当たりがないわけじゃなくて、それを理由に自分を納得させられた。

 

今回は違う。彼の遺書を読むことになるなんて、そんなの一瞬だって、想像したこともなかった。


あたりまえにそこにあって、いつかはステージを降りて、家族をつくったり、次の世代にバトンを渡したり、そしていつか私の知らないところで、しわだらけの手を振って、幸せな思い出を抱えて去っていくのだと。そう勝手に思っていた。

 

アイドルもわたしたちと同じで、こんなにあっけなく終わるのだ。そのことになぜか理不尽さを感じた。

 

うつのことも終わってから知って、ステージで仲間と一緒に何千人、何万人に囲まれたあの彼はずっとひとりぼっちだったんだなあと思った。
わたしたちを幸せにした彼の歌が、彼の心を蝕んでいた。
魂がこもってるなんて表現は月並みだけれど、ほんとうに魂を削ってつくった歌だったのだから当然だ。

もしかしたら、もう心は冷たくからっぽになっていたのかもしれない。

 


あれから1週間近くたって、いまだ私はあの12月18日に取り残されている。
自分でも不思議なくらいだ。
実感がわかなくて、なんだか、ジョンヒョンという役はいなくなったけれど、彼自身はどこかで元気にやってるんじゃないか、そんなフィクションに縋りたくなってしまう。

 

彼の、SHINeeの歌はとてもじゃないけど聴けなくて、でもほかのひとの曲を聴いている自分もなんだか嘘をついているようで、ラジオか無音の生活をしている。

こんなにも死の受容に時間を要しているのはたぶん、悼むことはできても弔うことができなかったからだ。

 

わたしは死後の魂の存在についてはあまり考えないほうで、弔いは遺されたひとたちのためのものだと思っている。
弔うことで死を受け入れ、慰められる。

 

でもわたしたちは彼の棺に一輪の花を添えることさえ許されていない。最期の姿を目に焼き付けることもできない。悲しむ遺族を抱きしめることも、親しかったひとたちと故人の思い出を語ることも。
日常は変わりなく流れていて、海の向こうで知らないあいだに彼は見送られ、行ってしまった。

 

いったいどこで線を引けというのだろう。
いつだって画面の向こうで、彼からはわたしなんて見えていなくて。機械がなければ彼の存在を知ることも、その死を知ることもなかった。
弔うには遠く、忘れるには近すぎる。
そんなひとの死を、どうやって受け入れたらいいのだろう。

 

わたしはまだ、その術を知らない。

 

願わくば最期にあなたの瞳にうつった景色が、幸せなものでありますよう。ただそう願っている。

 

 
お疲れ様でした。

ありがとう。

じゃあね。

けーぽぺん的SideMセカライ感想文

 

先日「THE IDOLM@STER SideM 2nd STAGE ~ORIGIN@L STARS~」円盤鑑賞会をしたので(既にいいPではあるが)韓国ヲタ的見地から感想を。


K-POP界隈では雑食ぺんとしてそれなりにたくさんのコンサートを見てきたが、やはり日本の、しかも2次元畑でうまれたコンテンツのライブというのはひと味違った面白さがある。そのなかでもアイマスはかなり特殊であるということは抜きにしても。


どれが何日目だったかセトリなど記憶が曖昧なので1日目も2日目もごちゃまぜである。両日でひとつのライブだったという感覚が強い。

 

 


まず早々に協賛企業コールである。大スクリーンに映し出される企業名を観客全員が声を揃えて叫ぶ。

 

BANPRESTO!MOVIC!amiami!KOTOBUKIYA一迅社namco
Yamanashi!!!!!!

 

お世話になっております!
お得意様Yamanashiさんに特大の歓声が起こる。
今でこそ見慣れているが改めてかなり異様な光景である。ここで既に、K-POPライブとの最大の違いが顕著になっている。2975694139回言われたことだが2975694140回目としてここに刻みたい。

 

観客席を埋めているのはファン(ペン)ではなく、各々があくまでも『プロデューサー』なのだ。

 


そして開幕。韓国アイドルライブならここでライブ全体のコンセプトを示す割と長尺の特別映像など流れるところである。宇宙から地球に降り立ったり、宇宙から地球に降り立ったり、宇宙から地球に降り立ったりする。ざっくりとしたメンバー紹介が含まれる場合が多い。

 

しかしこちらは注意事項などの映像のあと(キャラクターの紹介くらいはあったように思う)、比較的あっさりと1曲目が始まった。キャスト全員登場によるビヨドリ。

 

多い!!!!!!はみ出る!!!!ステージから!!!!


各日総勢23人だったか多分それくらいであったと思われるが、まあとんでもない人数である。

K-POPアイドルの中でも多いでおなじみEXOで〇人、SJでも〇人、と比較対象を挙げようとしたが物議を醸したくないので明言は回避する。韓国アイドルグループに人数の話は禁忌だ。いずれにしても15人を超えることはほとんどない。Mカかよという感じである。

 

さて、ビヨドリであるが、観客席は非常にカラフルなペンライトで彩られている。各々が思い思いに担当アイドル(≒広義の『推し』)のカラーを振っているのだ。
Pは慣れっこだが、これもまたK-POPライブでは見られない特色である。基本的にはライブ中に使用が許可されているのは公式ペンライトのみとなる。これがとてもデザイン性が高く、かわいい。

びっべんの王冠鈍器、ぶろびの蜂鈍器、びえぴのマトキ鈍器、iKONの鈍器などの各種鈍器が取り揃えられている。個人的おすすめはままむーの大根ペンラだ。
応援カラーも公式で決まっている。トンのパールレッド、SJのパールサファイアブルー、おしゃいにのパールアクアグリーン、ソシのパステルローズピンクなど。奇しくもSMばかり挙げてしまった。大抵のカラーは埋まってしまっているため、新人になるほど色の名前がやばくなる。せぶちに至ってはローズクォーツ&セレニティーという2色展開である。

K-POP現場で(企画以外で)公式ペンライト以外を振ろうものなら最悪つまみだしも有り得る。


一方アイマスライブなどの声優イベント現場では、公式からもペンライトが販売されている他、長さや電池の種類などの規定さえ守れば概ね何色を持参しても良いという。多くのプロデューサーはいかなる場合にも1本で対応できるような多色ペンラを持っている。
かくして非常にカラフルな状態での一曲目と相成ったわけである。

 

(そしてライブが始まっていくわけだが、F-LAGSのステージでこの自由ペンラ制度がかなり効いてくる。)

 

舞台セットは前ステージのみ。これはわたしの見てきたK-POPコンサートにドームなどが多いことも関係しているかもしれないが、アリーナ席までせり出して中程にもセリ付きの広いスペースがあるステージセットに見慣れてしまっているためやや狭く感じる。というか人数に対して間違いなく狭い。ある意味、視線が泳がないので一点に集中できるともいえる。

 


セトリは全体的に曲数が多く密度が高い印象を受けた。人数が多いためひとりあたりの出演時間は短いが、その分凝縮されたパフォーマンスとなっていた。衣装も凝っているしスクリーンの映像にも力が入っている、歌もダンスも全力だ。

お色直しタイムでおなじみの映像作品の挿入なども、なくはないが比較的短いように思った。

 

そもそもK-POPアイドルのコンサートはかなり世界観を作りこんで、そのコンセプトのなかでライブが進行する。アーティストではない何者かとして歌い、踊る舞台のようなものも多い。

しかしアイマスでは、アイドルであること自体が世界観である。演出のストーリー性よりもアイドルが舞台でスポットライトを浴びるということに重きが置かれている。少しでも長く、少しでも多く、という思いを感じる。


ドラスタもアルテもカフェパレもみんなみんな最高だった。彩Pは全員のソロがあったため心穏やかでなかったし、もふもふは間違いなくかわいいのプロだった。あんなに可愛い成人男性があっていいのか。

1曲ずつすべてに触れたいところだが記憶と時間と文字数と気力がかなり必要となるため割愛する。

 

 

何よりも。韓国アイドルは当然アイドルとしての訓練と経験を積んでいるので、ステージの上で自分を輝かせる方法を知っている。特技を披露したり、アドリブで観客を沸かせたり、おどけて笑いを誘ったり。

「みなさんのためにもっと努力する“わたしたち”になります、たくさん愛してください」

と彼らは決まって言う。そして自分たちの最高のパフォーマンスをペンに届けるため、努力を惜しまない。

 

しかしSideMのキャストは声優であり、役者だ。彼らはキャラが輝くことをなによりも大切にし、自己にスポットライトを当てようとしない。

「もっともっと前に進んでいく“315プロ”とどうかこれからも一緒にいてください」

と。キャラがいて、プロデューサーがいて、たくさんの人がいて、はじめてキャストが舞台の上にいるということを彼らは知っていて、そのことへの感謝が本当に伝わってきた。結果的にその思いが彼ら自身をも輝かせているわけだが。

 

 


最後の挨拶。みんな、また必ず、と言った。
また、は何とわずか1年後にやってくるらしい。

 

 

さて、幕張に行く心の準備は万全である。

無形のものを買う


サービスを買う。オプションをつける。
たいていの場合、手元には何も残らない。


たとえば、新幹線でグリーン車を選択する。いつもよりランクの高いホテルに宿泊する。アトラクションを優先的に利用できるチケットを購入する。ハイランクの席で演劇を鑑賞する。


なんだかもったいない、と思ってしまう。石油王の嫁にでもなれば屁でもないのかもしれないが、残念ながら私は庶民である。もっと節約の余地があるのに、と思ってしまうのが常である。

 

本当にもったいないのだろうか。
少し余分にお金を払って質を高めるということは「ぜいたく」なのだろうか。

 

 

そもそも日本人という国民は「おもてなし」を重んじるあまり、サービスに金銭を払うということに躊躇いがあるように思う。ホストはゲストに、須らくして最善を尽くす。顧客は神様である。


「おもてなし」はあくまでも前提で、取引の無償の付属品という感覚だろうか。

 

そんなのは甘えでしかない。


というのは言い過ぎかもしれないが、たぶん、それに近い。

 

 

そもそも、もてなしは無料ではない。
たとえばこれが家どうしの行き来なら、招かれた側にも準備が必要である。
訪問のために予定を調整する。時間をつくるため、誰かに頭を下げることもあるかもしれない。あるいは家事を早めに終わらせる必要がある。新しい足袋を下ろし、いつもより良い装いをするだろう。手ぶらで向かう訳にはいかない、菓子折のひとつでも持たねば格好がつかない。運賃を払い、あくびをかみ殺して電車に揺られる。慣れない土地を手書きの地図を頼りにさまよい、緊張しながら玄関の呼び鈴を押す。

そこではじめて、「おもてなし」を受ける。

 

どうだろう。深夜のコンビニにパジャマも同然の格好でふらりとやってきて「お客様は神様だ」などと誤った伝統を振りかざし無理を通そうとする行為のなんと馬鹿馬鹿しいことか。なぜ己がもてなされるに価すると思っているのだろう。何の努力も払っていないのに神を騙るなど傲慢も甚だしい。

 

根拠も特定の対象もなく怒り狂ってみたが、要はサービス(もてなし)には相応の対価を払わねばならないということだ。

 


ではオプショナルな待遇が果たして贅沢品であるのか、サービスに追加料金を支払うことに意味があるのかということについてだが、これは当然状況や価値観によりかなり左右されるので一概には言えない。


ただ、無形のものが大きな価値をもたらすことは少なからずある。以下に自戒も含め私個人の判断基準を挙げてみようと思う。

 

第一に、その追加料金によって時間が短縮できるかどうか、考える。時は金なりというのは平均寿命が80を超えた現代よりずっと昔に生まれたことばであるが、未だ多くの人が真理と認めている。金銭は時間の上にあってはじめて価値を持つ。

 

第二に、その追加料金が経験の質を高めることに繋がるかどうか、である。ある種のオプションは、知的好奇心を満たしたり、思いもよらない感動を生み出したり、今後訪れる判断の機会に役立ったり、人間関係を円滑にしたりする。大袈裟にいえば精神的成熟をもたらす。
金銭で知力を買うことはできないが、知力を培いやすい環境を買うことは出来るのだ。

 

第三に、長期的に見てもそれが高価であるか。案外、最初の投資が後々の得になることも多い。私自身、節約したつもりで安物買いの銭失い、というケースが結構ある。

 

 

自己に反映され可視化される可能性を秘めているなら、サービスはあながち無形ともいえないかもしれない。

 


節約上手とケチは違う。サービスを省くことは確かに合理的であるが、自分の時間の価値を高める出資は惜しみたくないと思う。
いつか石油王と結婚するまでは、たまに少し背伸びしてみるのも悪くない。

プレアデスと銀河鉄道

 

  あんスタ『プレアデスの夜』イベントのストーリー感想です。そんなに凄まじいネタバレはないがほぼ自分用メモと化しているので、一応怖い方は本編読んでからどうぞ。

 

 


  『プレアデスの夜』のステージやカードには、宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』のモチーフが使われている。イベントタイトルも恐らくそれを踏襲したものだろう。
ここで既に宮沢賢治ガチ勢のわたしは五体投地し涙と鼻水をたれながら慟哭したわけである。


  そうだ、逆先夏目はジョバンニなのだ。
  そして、青葉つむぎはカムパネルラ。


  というわけで、宮沢賢治ガチ勢的エモーショナル激重プレアデス考察(?)を展開していきたい。
銀河鉄道の夜』については教科書にも載っていたことと思うので読んでいることを前提に書いているのだが、ぬるっと説明すると貧しい少年ジョバンニが友人のカムパネルラと不思議な鉄道に乗って銀河の旅に出るよみたいな話だ。最高なので読んでください。読めよ。

 

 

 

★ふたりは対極にいた

  『銀河鉄道』の冒頭。ジョバンニが同級生のザネリと仲間たちに大声でからかわれる場面がある。その場にいたカムパネルラは何も言わず、ザネリたちとともに去っていってしまった。ジョバンニとの間にあった友情よりもザネリに同調することを選び、気の毒そうな顔で苛めを黙認するのみだった。

 

  天祥院英智のことをザネリと置き換えることを良しとするなら(わたしは天祥院英智のことも大好きなのであしからず)、これはfineに属し五奇人討伐に加担していた青葉つむぎを彷彿とさせる。
  つむぎは夏目たち五奇人が迫害されることを認めていた。昔から知っていた『なつめちゃん』が苦しんでいるのを、可哀想だと思いつつも必要悪として捉えていたのだ。

 

 


★仲間になる

   それでもジョバンニはカムパネルラを受け入れる。銀河をゆく旅の仲間として迎える。
カムパネルラのほんとうの心がまっすぐで曇りのないものだと知っているからだ。

  英智から切り捨てられたつむぎを拾い上げたのはほかの誰でもなく夏目だった。それは一度fineとして上り詰めたつむぎを利用するためでもあったが、それ以上につむぎに信頼を置いていたからだ。

 

 

 

★蠍(さそり)の火

  銀河の旅路の途中、ジョバンニは車窓から赤い強い光を見つける。「あれは何の火だろう」というジョバンニに、カムパネルラが「蠍の火だ」と答える。
すると乗客の女の子が、『蠍の火』の言い伝えを教えてくれる。

  むかし、いたちに追いかけられて井戸に落ちた1匹のさそりが、溺れながらこう祈った。自分は今までたくさんの命を奪って生きてきたというのに、いざ自分が食べられようとした時には一生懸命に逃げてしまった。どうせ溺れ死ぬ命ならくれてやればよかったのに。どうかわたしのこの心を見てほしい。そして次こそは「まことのみんなの幸」のためにこの身体を使ってほしい。
すると、さそりのからだは真っ赤な美しい光となって夜を照らすようになった。今でも明るく燃えるその光こそが『蠍の火』なのだと。

  旅が終わりに近づいてきたころ、カムパネルラとの別れが迫っていることも知らずジョバンニはこう言う。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
そして、カムパネルラは涙ながらにその言葉に同意する。

 

  夏目は最後の五奇人として、戦火から自分を守ってくれた4人の『にいさん』たちの夢を受け継ぐことを誓う。今度は自分が火に包まれようとも、道に光を照らそうとする。夢を高く、輝く星のように、夜空に掲げてみせると心に決めている。

 

  つむぎはかつて、fineのひとりとしてたくさんの人を傷つけ、夏目たち五奇人をばらばらにした。それなのに夏目の隣で、過去の戦いで英智が築いた安全な囲いの中で幸せを享受しようとしている。その矛盾を受け入れられないでいるからこそ、夏目が進んでゆくために「また利用される」ことを選んだ。

 

こんな己の身などくれてやったほうがいいのだ、「ほんとうにみんなの幸のためならば」と。償うように、他の人の幸福のために犠牲を厭わないふたりは正に『蠍の火』だ。

 

 


★二人の訣別

   『銀河鉄道』の結末は悲しいものだ。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」
ジョバンニがそう言って振り返ったとき、もうそこにカムパネルラの姿はなかった。
夢から目覚めたジョバンニは、カムパネルラがザネリを助けるために川に飛び込んでそのまま戻らなくなったことを知る。
ふたりの物語は永遠の別れで幕を下ろす。

  夏目とつむぎの物語にも別れが待っているのだろうか。少なくともつむぎは、夏目に切り捨てられることを恐れていない。また、計略的にとはいえ友であった英智が危機に陥ったときには身を呈するような危うさもある。
  けれどSwitchの場合は、ふたりの物語ではない。

 

  春川宙は、夏目とつむぎを『めらめら燃えてた』『綺麗』な『お星さま』と言い表した。なんて的確なのだろう。宙は『蠍の火』がやさしい光であることに気づいているのだ。
だから宙は夏目が離れようとしたとき懸命につなぎとめた。絶対に夏目とつむぎの手を離そうとしなかった。
宙がいたから、Switchは3人で輝くことを選んだのだ。

 

 


  とまあここまでまことしやかに書き連ねたがすべて一転校生の持論である。
  プレアデスが『銀河鉄道の夜』を踏まえていることは殆ど確実なのでわけわかんねーという人もそれだけ覚えて帰ってほしい。まとめると宙ちゃんがいてほんま良かったSwitch尊いということです。


  それと蛇足なのだがプレアデス、スバしのが完全に付き合っていて最高だった。ありがとうございました。

 

反省文を含む自己統制のはなし

 

 

或る日の出来事である。

 

ほんとうに危険な行為を、やや非難を含めた言い方で指摘したところ、

「あなたは心配しているつもりかもしれないがただの非難にしか聞こえない!」

と言われた。

 

いや非難なんですけどね と思うのと同時に、もっと平和的解決を図ったほうがよかったのにと自分の未熟さを痛感した。

 

きっと相手の心には『非難された』という感情だけが刻まれて、『危険である』という事実は二の次になってしまっている。

わたしはわたしのことば選びで損をしたし、相手は学ぶ機会を失った。もしかしたら同じことが繰り返されて、今度は事故につながるかもしれない。

 

わたしはどちらかというとコミュニケーションをベースにする職種を選んだので、公的な場などでの意思伝達についてはそれなりに訓練する機会を持てている。

だが、プライベートではまだまだそうはいかない。

言いたいことを精査せずに口から出してしまったり、そもそも伝わりづらい言い回しやタイミングを選んで混乱させたり。或いは、分かっていて悪意を濾過せずにことばに含めてしまったり。それで今回のように失敗もする。

 

上手にことばをつかえるようになりたい。もっと精錬して、伝達したいことだけを発信する。

少なくともそこに、送り手のマイナス感情は必要でないのだ。いくらこちらのコンディションが悪くともそれは相手の与り知るところではない。

疲れていようが体調が悪かろうがホルモンバランスで気分が優れなかろうが人を傷つけていい道理はない。八つ当たりされて不快に思わぬ人間などいない。

 

自己統制。

きっといつまでも、生きている限り、一生、わたしはわたし自身と戦っていかなくてはいけない。

最大の敵は自分自身 というのは、何度となく耳にしてきた表現であるが、その意味をいま身をもって実感している。

 

 

 

質問のはなし

 

ふと、質問をうまくできるようになりたいと思った。

 

質問、特にオープンな問いかけ。
これは単に自分の疑問を解消するためのものと、相手に情報の整理を促す機能を持つものに分けられる。話を聞いているという意思表示や積極性のアピールなど、質問すること自体が意味を持つ場合もある。

質問というのは難しい。
私の知る賢いひとたちの殆どは「上手に訊くひと」であるように思う。
「上手に訊く」から賢いし、賢いから「上手に訊く」ことができるのだろう。

 

適切な質問をするということには多くの高次な過程が含まれる。
まず、現在の状況を正確に把握する。
自分にとって必要な情報を認識し、その供給源となりうる対象を選定する(既に候補となる対象者を知っていて、かつその相手と質問が許される関係性を築いていることが前提となる)。
もう1度状況を吟味し、質問を発するべきタイミングを判断する。
疑問を言語化する。これは伝わりやすく簡潔で、尚且つ相手に対する敬意を示し、気分を害さないかたちを取らなければならない。
そしてようやく、発声する。
だが質問は発することがゴールではない。相手の返答に耳を傾け、理解し、情報を処理する。
自分の求める情報が得られたのかを照らし合わせ、必要であれば更に質問を重ねる。

 

ざっと挙げるだけでも質問の機序にはこれほどの処理能力が必要とされる。気が遠くなりそうだ。

それでも我々は質問をする。適切なものにしろ、そうでないにしろ。
残念ながら質問が苦手だからといって、受動的な情報収集だけではうまく生きられない。

「元気にしてる?」「弊社を志望された動機は?」「ミルクと砂糖はお付けしますか?」「環境問題についてどのようにお考えですか?」「今なんて?」「お母さん私の上着どこ?」「専門家としての意見をお聞かせ願えますか?」「予備は何部印刷しましょう?」「どこの政党を支持してるの?」「他にご質問はございませんか?」

繰り返されるプロセス。対象者が自分自身であるものを含めると、一日にどれだけの質問が脳内で生成されているのだろう。
専門知識、経験、こだわり、意見、予定、希望、或いは客観的な自分のこと。質問を通して得られるものはほんとうに多様だ。

知識や理解を得る手段としての質問では、よりスピーディに、より深い疑問を持ち、発信することが鍵となる。質問の能力を高めることは知識を深め、思考力を訓練し、感覚を研ぎ澄ませることと関連している。

もちろん質問はそこで得た情報をアウトプットしなければ意味がない。質問ばかりして行動の伴わない人間はかなり厄介だ。
けれど、自分の得意なことや専門領域についてだれかが興味を持って訊いてくれたとき、嬉しく思うひとはたくさんいるだろう。少なくとも私はそうだ。

 

ググる」ことですぐに情報を得られる環境によって、疑問を保持する時間は確実に短縮している。質問を行うプロセスの多くが省略されている。
まずは忙しい生活のなかで足早に過ぎ去っていく物事を興味を持ってみつめ直し、のんびりとはてな探しをしてみるのもいいかもしれない。

 

「百聞は一見に如かず」は多くの場合真理だ。けれど人生は疑問の数だけ「一見」を重ねるにはあまりに短い。だれかの「一見」を「百聞」としておしいただくのも悪くない。

 

だってそのほうが、何も得られないよりずっといいと思いませんか?

バランスのはなし

このところ長い文章を書く機会というのに困っておらずご無沙汰だったが、久しぶりにただただ最近の考えを書き連ねてみる。校正はあまりしないようにしたい。整合性のなさ、一貫性の欠如も含めて私という人間だ、ちょっとは反省しろ。

とかく論ずることが好きなので、好きなことを語るというブログの方向性と齟齬はない。ないんや。

 

このところ、バランス感覚について考えさせられることが多い。
もちろん物理的な平衡感覚の話ではない。対人関係における、あるいは精神的な平衡である。

対人関係におけるバランスは、『空気を読む』というやつだ。
場の雰囲気や他者の感情に配慮して、自分の感情や希望を譲ったり、役割を変えたり、時間やエネルギーや物質的な犠牲を払ったりする。

日本人にはバランスを重視する傾向が強いが、私もまた過度にこれを気にするタイプである。バランスをとることにアンバランスな注意力を向ける。

致命的に自己肯定感が欠如しているので、よそさまに悪影響をもたらしてまで自分の意見を通す気がない。品のない下ネタも笑うし、相手のミスは容認する。
場の空気や他人の感情のほうが、自分よりずっと価値があるのだから。

こうして場の平衡への執着のために、精神的なバランスが崩れる。

精神的なバランス感覚は厄介だ。ホルモンに左右されたり、他者の何気ない言葉でぐらついたりする。本を一冊読んだだけで安定することもある。
すべてが自分の体重のかけ方に委ねられているのだから対人のバランスよりも簡単であるはずなのに、不思議なものだ。

ずっと中心点を探している。何に追われるわけでもないのに焦燥感に駆られる。みんなが海の見える豪邸のベランダで仲間とパーティーに興じている様子を見上げながら、或いは一所懸命に築き上げた堅固な石垣のうえで設計図を広げる姿を横目で認めながら、自分だけは丸腰のまま泥濘に流木で掘っ建て小屋をつくろうともがいている。

でもご安心を。人間はみんな、大人になったら自ずと安定するのだ。大人という生きものは安定している。心の作用も感情も自由自在だ。
そう盲信したままのこどもが、いよいよのこり半年で成人を迎えようとしている。

論点がタップダンスではあるが、要は大人になるとはバランスが取れるようになることなんじゃないかな、いまのとこ全然だめだな、年をとるのは嫌だな、という救いようのないピーターパンシンドロームである。

どこかに重心を置いて安住できるようになるのだろうか、それとも、足掻くのも悪くないと思える日が来るのだろうか。

そんなことを考えながらも、足場を固める努力も払わぬまま、三半規管の海に揺られる日々を過ごしている。